以前、会社の若い部下と昼食に蕎麦屋へ入った時のこと、私が「あんかけうどん」を注文すると、その部下は怪訝な顔して「それなんですか」と質問してきた。ちょっと説明するのに億劫だったので、「おかめうどんにあん(餡)がからめてあるもの」と応えると、今度「おかめ」ってなんですかとの声が返ってきた。私は人通り説明した後、「あんかけうどん」が運ばれてきて、それを見た彼は「随分変わったもの食べますね」と首を傾げるのだった。その後、私は畳みかねるように、「それじゃーカレー丼知っている?」「むじなそばは?(タヌキ<あげたま>とキツネ<揚げ>がまざっている)」「花巻は?(乾燥のりが掛っている)」当然のこと全て知らなかった。「蕎麦屋に入るなって、東京に来てからなので、最近なんですよ」と、どこの生まれだかは忘れたれがカツ丼を食べながら笑っていた。私のような東京下町・郊外育ちにとって、大衆蕎麦屋は、THE日常と言っても過言ではないほど生活に馴染んでいる飲食店だったが、地方に行くとそうでもないだろうし、あまり関わりのない人にとっては大衆蕎麦のメニューなど知らないのは当たり前のことなのだということを、大人になって気づいたのである。そして、現在、その大衆蕎麦屋も東京からどんどん消滅しそうな気配なのである。それと同時に、大衆蕎麦屋の中ではマニヤックな「あんかけうどん」は、かつて存在していたのかと見まがうほど、メニューから欠落しだしたのである。


大衆蕎麦屋が少なくなるとともに、オジサンの大好きな「あんかけうどん」も、もう食べられなくなるのかと思うと、少し厭世的な気分になる昨今である。大手チェーン店の「丸亀うどん」が冬になると「あんかけうどん」なるものを出しているが、ダメなのである。東京の大衆蕎麦屋の「あんかけうどん」とは違うのである。あんかけの聖地・名古屋の食評論家が東京では旨いあんかけが食べられないとほざいていたが、知らないのである、東京大衆蕎麦屋の「あんかけ」を…。引き締まった深く濃い汁(ツユ)で作る、黒光りしているあん(餡)のスバラシサを。名古屋のあん(餡)かけなど足元にもおよばないのが、東京大衆蕎麦屋のあん(餡)かけなのである。
そこで今回は、絶滅してしまう前に自称、日本で一番「あんかけうどん」を食べた男が東京大衆蕎麦屋の「あんかけうどん」が如何に素晴らしいものかを取材したいと思う。
本日ご紹介するのは、1899年創業、上野駅前の「翁庵」と1860年創業、浅草の「尾張屋本店」。どちらも東京では老舗中の老舗。汁(ツユ)が不味い訳がないと訪問。というか「尾張屋本店」(3回ほど)はともかく「翁庵」は行きつけの店である。しかし、この両者、酒を飲んでしまうので最後の〆はもりそばになってしまい、まだ「あんかけうどん」を食べたことはない。ただ、ここなら絶対間違いないモノがでてくるだろうと思い足を運ぶことにした。


まずは「翁庵」なのだが、本日は絶対酒を飲まないと決心して、時分時に訪問。さすがに混んでいる。ただここは一人、どこの空席にも割り込めるという強み、チケットカウンターで買い(3時まではチケット制)、端にある8、9?人の囲み席へ座る。いつもは煮油揚げと板わさをツマミに瓶ビールと常温酒を飲むのだが、我慢我慢で「あんかけうどん」を待つ。ここの人気はねぎせいろ。二八で細目で長い蕎麦、まさに江戸前蕎麦で、私は好きである。汁(ツユ)はさすがに老舗高級店(室四砂場、神田藪、浅草藪、永坂更科他)のようにはいかないが、年季は感じる汁(ツユ)である。さて10分程で着丼。おー蕎麦屋の「あんかけうどん」である。見ためはもっと黒いほうが良いが、まさにオーソドックスなあんかけ。具も蒲鉾、伊達巻、麩、シイタケ煮、タケノコ、ナルト、色付けの青菜と完璧で隙(スキ)がない。うどんは太目で、腰はあまりないが、よくある東京のうどん。大好きなシイタケ煮も申し分のない、他の具材もあん(餡)と絡みながら親指1本上げである。あん(餡)もほどよい硬さで、啜っていきながらの溶け加減も良い。欲を言えば、やはり汁にもう少し締まりがあるとベストなのだが…。75点というところか。しかし、この店20回以上顔を出しているのだが、「あんかけうどん」を食べている人を見たことがない。さてすでにあん(餡)溶けしてしまった汁(ツユ)を最後に啜って、ごちそうさまと店を出る。



次ぎは浅草「尾張屋本店」、実は、ここは「あんかけうどん」を食べようなどと入ったわけでなく、観音様に挨拶したあと小腹が空いたので軽く一杯飲んで蕎麦を手繰ろうと小粋なことを考え入ったのであった。平日午後4時、さすが、お客さんは異国人夫婦の二人だけ。これが浅草の良い所、通し営業なので平日この時間は静かにスローな時間が流れている店が多いのである。4人がけのテーブル席にゆったりと腰を落ち着けて、まずビールを注文。メニューを眺めながら、ここは蕎麦味噌がお通しに出なかったけな(並木藪は出る)と蕎麦味噌とやはりここは海老天の店、ヌキ(天ぷら蕎麦の蕎麦ヌキ)をツマミにと注文。お店の人が日本酒を頼むと蕎麦味噌が付いてくること教えてくれる。これは注文すべきでしょうと、笹の川(福島県郡山市の酒造元)の常温をオーダー。日暮れ間際の浅草で味噌とヌキの天つゆを啜りながら酒を飲む。これを至福と言わなければなんなのか。壁棚においてある永井荷風先生の顔もほころんで見える(そんなことはない)。ほどよく酔いがまわり、さて〆は永井セット、鴨南蕎麦にするかと、またおしながきを眺める。あれ、「あんかけうどん」なんかこの店にあるんだなと気づく。そもそも、この店が大衆蕎麦屋だと思っていない、オジサンにとっては高級の部類(値段はやはり張ります)に入る蕎麦屋なので、はなからそんなものはないと思っていたが、あるのである、ちゃんとメニューに掲げっている。「尾張屋」のあんかけうどんなど滅多に食せないだろう(そもそも食さない)と、オジサン小躍りしながら、ここはチャンスとばかり注文したのであった。10分ほどで創業から165年の蕎麦屋の「あんかけうどん」が登場。おーっと叫びたい気持ちを抑え、「あんかけうどん」を眺める。なとも言えない気品があるではないか、具は蒲鉾と出汁巻玉子(伊達巻でないところが高級か)、シイタケ煮、そして柚子の皮が乗る(この控えめな具が洗練された東京を感じさせる)。この具があんに飛び出さず、沈みこんでいるのが、またオツなのである。そしてネギの横にはちゃんとショウガが添えてある。さて、あん(餡)からうどんを手繰ると、極太のうどんが現れる。さすが汁(ツユ)もきっちりと締まっている。当たり前だが親指1本あげで85点。「あんかけうどん」はまだまだこの世に活きているのである。誰も知らない、誰も食べない「あんかけうどん」になりつつあるが、オジサン一人でも「あんかけうどん」を食べ続け、この世の大衆蕎麦屋から「あんかけうどん」が消えないように力の限り応援してゆきたいと思っている。この稿を書き終わった後に、あの日本一の値段が張る蕎麦屋「室四砂場」にも「あんかけうどん」があると聞いた。早速食べに行くかな。



翁庵(おきなあん)
ジャンル そば、天丼、かつ丼
お問い合わせ
03-3831-2660
予約不可
住所
東京都台東区東上野3-39-8
交通手段
東京メトロ日比谷線【上野駅】徒歩2分
JR各線【上野駅】浅草口/広小路口 徒歩4分
東京メトロ銀座線【稲荷町駅】徒歩6分
京成本線【京成上野駅】徒歩7分
上野駅から293m
営業時間
月・火・水・木・金 11:00 – 20:00
土 11:00 – 19:00
日・祝日
定休日
営業時間・定休日は変更となる場合がございますので、ご来店前に店舗にご確認ください。
尾張屋 本店(おわりや)
ジャンル そば、天丼
お問い合わせ
03-3845-4500
予約不可
住所
東京都台東区浅草1-7-1
交通手段
東京メトロ銀座線、東武伊勢崎線 浅草駅 徒歩4分
都営地下鉄浅草線 浅草駅 徒歩6分
つくばエクスプレス 浅草駅 徒歩4分
東京メトロ銀座線 田原町駅 徒歩4分
田原町駅から313m
営業時間
月・火・水・木・土・日 11:30 – 20:00
金定休日
営業時間・定休日は変更となる場合がございますので、ご来店前に店舗にご確認ください。